ブックレビュー②

さて、第2回目のブックレビュー。


今回は徳山喜雄著『フォト・ジャーナリズム』(2001、平凡社新書)です。


この本を読んだきっかけは、ジャーナリズムの領域で、フォト・ジャーナリズムが


もっとも僕の興味がある分野だからです。


昨今、動画ほどインパクトがあるメディアはないと言えます。


動画は、人々に分りやすくかつ強烈な衝撃を与えるからです。


では、写真が持つジャーナリスティックな意味とは何なのか…。


それを本書では追及しています。


まず写真というメディアについて。


写真が誕生した際、絵画は無くなると言われながら新たな想像力を見出したという言葉を引用して、


写真もまた映像が登場したことで、新たな何かを作り出すのではないかという論点を紹介しています。


また、今まで新聞に登場する写真は掲載されるまでの時間との戦いという面が強く、


質はそこまで問われていませんでしたが、


デジタル化し、時間の制約を受けなくなった結果、


カメラマンは仕上げる写真の質を上げる必要に迫られました。


質というのは、芸術写真と違い基本的に分かりやすいものでかつ、メッセージの強いものです。


他にも本書ではフォトジャーナリズムだけではなく、


ジャーナリズムそのものの本質に関する問いも提起されています。


それは、人命か報道か…という答えなきものです。



具体例としてあげられているのは「ハゲワシと少女」です。


あまりにも有名なため、説明はしませんが


この写真が公表されたのちに噴出したのが上の問いです。


やつれてしまい今にもハゲワシに命を奪われようとしている少女を見捨て、


写真を撮っていたのか、人として恥ずかしくないのか…と。


これに対して、もちろんジャーナリストとして報じることが使命だと答えるのも正しいし、


報じるよりも一人の人間として少女を助けるというのも正しい。


ジャーナリストでさえ、開口一番前者であるとは答えることの難しいこの問題は、


いまだ議論の余地があり、これ以降もジャーナリズムが存在する限りなくなることのない問いでしょう。


著者はこれに対し、人の命を考えることを忘れず、その葛藤を知りながらもなお、


人々に何かを伝えるのがジャーナリストであるという立場です。


しかし、決してこの問いを忘れずに持ち続けなければならないといいます。


ほかにも、阪神淡路大震災で被災した記者が、


ジャーナリズムと人命救助のはざまでどのような行動したかも紹介されており、


この問いが常にジャーナリストと共にあることを考えさせます。

・・・・・・・・・
ここで、本書にも出てくるフォト・ジャーナリストの長倉洋海さんの言葉を引きましょう。


かれは、今年の1月の朝日新聞グローブで、


今後の写真の可能性についてこのように答えています。


「人のありようを写す写真は、永久に残っていく」


人は人にひかれ、相手を写すことで自分が何者かを考える。


ということは、人が人に関心を持ち続ける限り、


写真は時を超えて残るとしています。


この言葉の解釈は人それぞれです。


ただ、僕が考える「写真」・「フォト・ジャーナリズム」の本質はここにあるのだと感じました。


動画でもいいじゃないかという人もいるかもしれませんが、


違うと思います。


動画は多くの画像が瞬間的に切り替わることで動いているように見えるんですが、


それはつまり、1秒という時間内でも多くの画像が消費され消えていくことに等しく、


写真が持つ一瞬の力を超えることは媒体特性として難しいのではないかと思うからです。


よって、人に関心がある限り、その関心を満たすメディアとして


写真は映像以上にその力を発揮するのではないかと考えています。


まぁ、このことに関しても本書では貴重な意見が記されています。


この本の副題は「いま写真に何ができるか」です。


この問いを読者それぞれが本書を読んで得ることが、


おそらく著者の意図でしょうし、


僕は自分なりの意味を見出しました。


是非読んでジャーナリズムというものと、


その表現手段として使われる写真について考えてみてください。


徳山氏は他にも、『報道危機』(集英社新書、2003)も書いています。


重複する部分もありますが、


そちらは特に本書よりもジャーナリズムという点に視座が置かれています。


興味がある方は是非読んでみてください。