くらやみ

暗闇にいると怖い。


たとえば、蛍光灯がさんさんと光るリビングから、


真っ暗な寝室に行くと、何も見えなくて


少し不安になることがありませんか。


暗闇の恐怖は自分の周りがどうなっているかわからないことが原因。
(そういえば、人間は五感の中で、視覚にもっとも依存しているそうです)


ヒトは、そのために火を操り、暗闇からの恐怖を解き放つ努力をしてきました。


そのおかげで、自分に不利なおおくの事象を見つけ出すことに成功しました。


要はヒトは自らの知恵を使って、視野を広げ多くの物事を把握し、それぞれとの距離をとることで


自身に危険を及ぼすものを排除したり、封じ込めたりするのです。


危険とはつまり自然です。


暗闇を照らすにはどうするか。強力な牙をもつ獣にはどう対処すべきか。


その結果、松明ができ、武器が生まれた。


そして、ヒトは最強の生物となり、今や自然さえも破壊しうる存在となった。


ついにヒトは暗闇に光をもたらしたのです。


しかし、彼らはそれまで常に物事との距離をはかり、それが危険かどうかを判断しながら、


生きてきました。


危険がほぼなくなった今でも、その習性(本能ともいえるもの)はなくなりません。


常に敵を探すことでヒトは生きてきたのに、


安全になったからといって、それをすぐにはやめられないのです。


そうするとどうなるか。


敵を自ら生み出します。


結果、ヒトはヒトを敵としたのです。


本来、仲間を危険から遠ざけるために得た習性のはずが


それが暴走し、同族を敵としてしまったのです。


その結果何が起きるか。


仲間同士の疑いあい、そして殺し合い。


戦争です。


しかし、本来同族であるヒトは敵ではありません。


仮の敵。仮想敵です。


まず、暗闇を照らすことでヒトは安心します。


その習性から考えると、


まず仮想敵を明確にし、


漠然とした恐怖や不安から解き放たれることをヒトは最初に望みます。


戦争が終わり、東西の対立も終わり、世界はとても平和になりました。


しかし、敵を見つけるという習性から逃れることはできず、


敵がいないことが逆に不安を煽り、血眼になって敵を探す。


その結果ちょうどよいものが見つかりました。


独裁者により支配され、たまにミサイルを撃つ危ない国、北朝鮮


日本人はとりあえず仮想敵を発見し安心しています。


ただ、北朝鮮に関する情報はほとんどなく、


なんとなく危ない国だ、というなんの根拠もない認識が共有されています。


やられる前にやらないと…という意識から、


先制攻撃をすることも考えられます。


もしかしたら彼らは敵ではないかもしれないのに……。


そして、実際に敵ではないと発覚すると、ヒトはただただ茫然と


自らの行いを悔いるのです。「なぜ、あんなことをしたのだろう」と。


イラク戦争はまさにそのような構図です。


テロリストの国イラク(より凶悪なイメージ付け)を仮想敵に設定し、危険だから排除しないければという意識が働く。


攻撃を一通りした後、気が付いてしまう。


イラクは大量破壊もなく、敵ではないのではないか。


しかし、もう遅い。


多くの人が死に、傷ついたことは変わらない現実。


そして、攻撃した者はこう嘆く、「なんでこんなことをしたのだろう」


ヒトの歴史はこれの繰り返し。


仮想敵を設定するのはしょうがないとしても(本当はやめるべき)、


行動する前にまず対象をよく知ろうとする必要があるはず。


仲井眞弘多沖縄県知事がこんな発言をしています。


北朝鮮が恐いなら、みんなでそのことを考えよう」


この精神をもっと人々は知るべきだと僕は思う。


この考えは、いつかの記事で紹介した森達也さんが


繰り返し述べていることをもとにしているので、


彼の本を読むと、この記事の意味も分りやすくなると思います。

ここは芝公園です。


前回の写真と同日に撮ったやつです。


芝公園が出てきたということは…。


次回にご期待ください。